教員エッセイ (その5)

 

       「瑞穂とみづほ」

                                石井 鐐二(本学科教授)

 

 中田瑞穂(18931975)は日本の脳神経外科の開拓者の一人である(写真左)。大正12年に東京帝国大学より新潟医科大学に助教授として赴任したのが29歳の時、以後82歳で生涯を閉じるまでを新潟で過ごした。その徳を慕って、新潟の地に弟子は多く、脳研究所も設立され、私もまたその孫弟子の一人である。

 中田瑞穂先生が自作の書画に句を添えられることは、拙宅にも数点の軸や額があって見知ってはいたが、かつて「東大俳句会」の主唱者であり、ホトトギス同人として活躍した俳人とは思いも寄らなかった。そういえば、書画には「みづほ」とか「翁」とか雅号が入っているが、それが俳号であったのだ。例えば、

  岩に腰かけ牡丹の香つつじの香 みづほ

家にある掛け軸だが、この句と共に、薄桃色の大輪の牡丹が描かれている(写真右)。桜の散って間もなくの庭であろう、そよ風と共に牡丹の香りまで運ばれてくるようで、新潟の長い冬が終わり、春と初夏が一時にやってきた喜びが感じられ、毎年、この時期に出しては愉しんでいる。実を言うと、花びらの一枚一枚が、葉の葉脈の一本一本が、まるで手術記録のごとく正確に細密に描かれていて、絵画としてはどうなのかと思わないでもない。が、俳人たちに言わせると、これこそ客観写生というものらしい。

 新潟赴任の翌年の大正13年から二年間の欧米視察の折、ドイツのハイデルベルグ大学の高名なエンデルレン教授の手術を見学中、深い感動の中で思わず心に浮かんだというのが

  刻々と手術は進む深雪かな 

である。手術はゆっくりと、しかし手際よく、着実に静かに進んでゆく。途中、ふと窓の外に目をやると、雪がしんしんと降り続いているという光景であろう。ハイデルベルグは長い歴史を誇る城と大学の町である。昔、私の勤めていた病院の手術室にも磨りガラスではあったが、高いところに窓がついていた。それが磨りガラスでなければ、降り積もる雪がよく見えたはずである。手術室の研ぎ澄まされたかすかな物音、中田先生の昂ぶる心のうちと戸外の静けさとが伝わってきて、我々の仲間うちで、よく口遊まれる句である。

 さて平成4年に先生の生誕百年の碑が脳研究所中庭に建立され、その時、会員全員の賛同により選ばれたのは

  学問の静かに雪の降るは好き  みづほ

という句であった(写真左)。『手術は芸術だなどと言う人がいるが、決して芸術などではない。まさに学問であり、学問的理詰めで行うものだ』としばしば言われ、「万一死亡した場合には必ず病理解剖に立ち会われ、寒い冬の日など、がらんとした冷え切った解剖室で、最後まで立ち尽くしておられた姿が今でも眼に浮かぶ」と高弟の追悼文にもある。また60歳の時に脳梗塞を発症されたが、その体験を細かに分析、推定し、「私自身の体験した一延髄発症の観察手記」と題した論文発表もある。さらに驚くべきは、亡くなる前夜、自分の延髄はかく摘出、検索して欲しいと書き遺されたことである。臨床医であると同時に、学者として、その学問に対する厳しさは、とても我々常人の及ぶところではない。

 数年前のことになるが、倉敷のとある小料理屋で、俳人の辻桃子さん(俳句結社「童子」の主宰)と夕食を共にしたことがある。酒もまわり、気分もほぐれてきたその席で、この中田先生の句に話題が及んだ。門外漢の私も、あれこれと勝手なことを言ったりしていたが、しばらくして彼女は何かの紙を取り出し、その裏へさらさらと書き始めた。

 『学問の静かに雪の降るは好き

   学問は厳しいが

しーんと寝静まった真夜を

一人いそしむのは

ひそかに愉しい

見ると、しらぬまに音も無く雪が

   ああ、学問は好きだ

そして雪はもっと好きだ  みづほ』

と。そして、ばい貝の刺身と一緒に皿にのせられていた大きな貝殻の絵が、その余白に描き添えられた。色付けの茶色は刺身醤油の色である。筆代わりに人差し指を使われたから、右下隅には醤油が一滴垂れている(写真右)。 

たったこの一句から、彼女はどうして、中田先生の心中を理解されたのか。学問の厳しさと喜びを感じ取られたのか。私は内心、舌を巻き、感服した。我々弟子の幾人が、これほどまでに深く、師の心のうちに入ってゆくことが出来るであろうか。俳句もよかったのか、辻桃子氏の感性が並外れて素晴らしいのか。相俟ってのことであろうが、これは脳神経外科医である私の宝物である。が、惜しむらくは、それも一興とはいえ、反古紙の裏であることだ。

NEWS HEADLINEページへ戻る